まず3月5日の最後にブログにコラムを投稿できなかったことをお詫びいたします。この半年間は本職のノンフィクション作家として、取材と執筆に没頭しておりました。 ベラ・チャスラフスカという体操選手をご存じでしょうか。チェコスロバキア(当時)代表だったチャスラフスカは1964年東京五輪の体操女子個人総合の女王で、種目別も含めて3個の金メダルを獲得しました。その美貌と華やかな演技で「東京の名花」と呼ばれ、日本中を熱狂させました。4年後のメキシコ五輪でも個人総合連覇を含む4個の金メダルを獲得しています。 そこまでなら体操の名選手という話で終わります。 特筆すべきははそれからの人生です。共産主義国のチェコスロバキアの自由化を推進する「2000語宣言」に署名をしたことで、メキシコ五輪後、20年にもわたり体操界から追放され、社会からもひどい迫害を受けます。親しい知人が道で会っても顔をそむけるようになりました。政府からは仕事さえ与えられず、名前を変えて変装して掃除婦をしながら、生活費を捻出していました。 当時の政府は強制的に連行して脅したり、彼女の友人を使って翻意させようとしたり、硬軟織り交ぜて、さまざまなやり方で彼女に「2000語宣言」の署名を撤回させようと迫りました。 政府の圧力に多くの署名者が意志を変える中、チャスラフスカは最後まで意志を貫き通しました。その彼女の折れない心の支えになったのは、大勢の日本人との出会い、交流、信頼、響きあう魂でした。 東京五輪開催から50年という節目の今年、どうしても私は彼女と日本人のつながりについて書き残したいと思い、執着してチェコに通いました。 私が最初にチャスラフスカを取材して、本を書きたいと思ったのは25年近くも前のことです。それから何度も彼女にインタビューをしました。しかし、あまりに浮き沈みの激しい人生の果てに、彼女自身は長く精神を病みました。それは私にとって途方もない大きな壁になりました。もうこのテーマについては書き上げられずに終わると思っていました。 私が一度は封印したチャスラフスカへの情熱に気づき、背中を押してくれたのは、同業者の尊敬するライター木村元彦氏でした。 木村氏の指摘は強烈でした。「長田さんはさぼっている」と一刀両断されました。この言葉で、私の情熱に再び火がつきました。 正直言ってこの半年間は、無茶苦茶むきになって取材と執筆に取り組みました。客員教授を務める大学で週に1度授業をする以外、ほとんどの精力をこの仕事につぎ込みました。 『桜色の魂 ~チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか~』 集英社より9月26日刊行となります。 チャスラフスカはスポーツ選手でしたが、政治信条でもはっきりと意志を主張しました。そして世界がそっぽを向いても、たった1人になっても、自分1人で考えて立ち向かう生き方を貫きました。その生きざま活躍した競技こそ異なりますが、プロボクシング元世界ヘビー級王者のムハマド・アリ(米国)とよく似ています。 日本のスポーツ選手たちはスポーツだけを黙って続けていればいい、スポーツ以外のことについては、特に疑問を抱かず、関心も示さなくていもいい、そんな歴史が長かったと思いませんか。 私は2020年の東京五輪を目指す若者たちはもちろんのこと、それ以後もアスリートを目指す人たちに、スポーツ選手はスポーツだけをしていればいいわけではない、ということをもっと感じてほしと思っています。 もう一つ、この半年間で力を入れて取り組んだものがあります。「東京五輪から50年」というテーマで取り組んだ『スポーツゴジラ』の取材・編集です。 今も市民ランナーして走り続けている、東京五輪マラソン代表の君原健二さんに、走り続ける理由と、東京五輪で銅メダルを獲得した後、次のメキシコ五輪を前に自ら命を絶った円谷幸吉さんについて語っていただきました。 長距離ランナーという同じ競技に打ち込み、同じ時代を生きた2人の人生を分けたものとは何だったのか……。 そして昨日(9月10日)、この『スポーツゴジラ』の特集と、チャスラフスカと日本人の交流を描いた新刊『桜色の魂』をもっとも読んでいただきたかった知人の訃報が届きました。1964年の東京五輪で最終聖火ランナーを務めた坂井義則さんです。昨年12月21日、第3回早稲田駅伝でお会いしたのが最後になってしまいました。 坂井さんには、昨年7月に発行した『スポーツゴジラ22号』の「東京五輪から49年目の証言」と題した特集で、インタビューをさせていただきました。 その後、2020年東京五輪開催が決定すると「次の東京五輪では新しい国立競技場で観客のひとりとして、じぃーっと座って、ゆっくりじっくり五輪を楽しみたい」と何度も言っていた笑顔が忘れられません。 「大小原(新宿にある坂井さん行きつけの居酒屋)に、また付き合ってくれ」。あの日、まだ取り壊し作業が始まる前の国立競技場で、坂井さんに言われた言葉が最後になりました。 坂井さんへの哀悼を込めて、2013年7月1日刊行の『スポーツゴジラ22号』に掲載された「3分で変わった~無名の聖火ランナー・坂井義則」を、あらためてこのコラムに再掲載させていただきます。合掌。「3分間で人生が変わった」~無名の聖火ランナー~ ――東京五輪を知る世代にとって、最終聖火ランナーの坂井義則さんの名前は忘れ難いです。当時はまったく無名の青年だったわけですよね。 坂井 無名も無名。人生は本当に何が起きるか分からないものですよ。 ――出身地の広島では中学、高校と陸上をやっていたんですよね。三次高3年の時には、山口国体の男子400㍍で48秒5のタイムで優勝しています。 坂井 ずっと陸上部で、東京五輪を目指していました。広島の田舎ですからコーチもいなくて、陸上競技マガジンを読みながら、ひたすら練習に明け暮れていました。上京して早大の競走部に入部してからも、ずっと東京五輪出場を夢みていました。日本陸連の強化指定選手にも選ばれていました。ところが、1964年7月の五輪最終選考会は準決勝で敗退してしまい、失意のどん底にたたき落とされました。もう何も手につきませんでした。広島の実家に帰るのもいやで、同じように目標を失った仲間と一緒に神戸の六甲山のふもとでボーッとしていました。一週間くらい実家に連絡しなかったね。 ――行方不明だったのですか 坂井 はい。仕方なく実家に戻ったら、「おまえどこに行ってたんだ」と親にしかられてね(笑い)。そんなとき、札幌で強化合宿中だった早大の先輩の小掛照二さん(三段跳び元世界記録保持者)から、はがきが届いたんです。そこに「聖火ランナーの候補に名前が挙がっているから自重しろ」と書かれていたんです。 ――驚きましたか 坂井 いやあ、聖火ランナーといわれても何のことか分からないし、「何だそれ」って、気にもとめないで、相変わらずゴロゴロしていました。でも、そのうちに妙に周囲がザワザワしてくるのです。共同通信の記者が急に来たりして。「何だろう」と思っていたら、8月に入った頃だったかなあ、朝日新聞の記者が「坂井くん、東京に行こう」って言ってきた。こっちは五輪の目標を失っていたし、時間も持てあましていたから、遊びにでも連れて行ってくれるのかなあ? なんて考えていて…。 ――東京五輪開幕の2カ月前ですよね。日本全体の高揚感や期待感を感じていましたか 坂井 五輪が近づいてきたという感じは濃厚でしたで。五輪の話題が日増しに新聞に溢れていくようでした。〝もう戦争国家じゃない、平和国家に生まれ変わったんだ、世界に追いつくんだ、そのためにも平和の祭典を成功させよう〟というムードに日本中が包まれていました。 ――朝日新聞の記者は坂井さんをどこへ連れて行ったのですか 坂井 あれはほとんど拉致だった。忘れもしない8月10日の朝早く、朝日の記者と一緒に広島駅から列車に乗りました。すると列車が駅に止まるたびに「坂井義則さん、坂井義則さん、駅から至急自宅に連絡してください」というアナウンスが流れてくる。でも横にいた朝日の記者は「かまわない。無視しろ」と言うんです。そしたら明石駅で他社の記者とカメラマンが列車に乗り込んできた。それを察知した朝日の記者が今度は「急いで降りよう」と言い出した。その後、大阪まで車で移動して、伊丹空港から深夜に朝日のセスナ機で東京へ飛びました。飛行機に乗るのは初めてでした。僕が小さな飛行機に目を白黒していると、パイロットが「大丈夫だよ。アメリカのケネディ大統領も同型に乗っていたから安心だよ」と言ってね。 ――スパイ映画みたいです。何も知らされてなかったのですか 坂井 その道中に「聖火ランナーの最終走者に内定した」と報道されたことを知らされました。 ――なぜそんな激しいスクープ合戦に当人が巻き込まれたのでしょうか 坂井 今では考えられないでしょうが、当時は新聞の報道協定なんてない時代だったから、各社が火花を散らしてスクープ合戦を繰り広げていました。最終聖火ランナーの情報も激しく飛びかっていて、高校球児の名前も挙がったりしていました。そんな最中、朝日新聞が「内定」と報じたので、他社はさらにムキになって僕を捜していたことを、後になって知りました。 ――結果として朝日新聞は見事にスクープを的中させました。ところでいったい誰が坂井さんを選んだのですか 坂井 個人名は知らされていないんです。聖火ランナーのメンバーは明日を担う若者として16~20歳で編成されました。ただ、僕の誕生日は広島に原爆が投下された昭和20年8月6日で、僕は爆心地から70㌔のところで生まれています。それから19年たって、平和の祭典が東京で開催される。敗戦からの復興と平和国家を世界にアピールするひとつの象徴として、自分の経歴が分かりやすかったことは間違いないでしょうね。新聞の記事にもなりやすかったんでしょうね。 ――平和のシンボルとして坂井さんは聖火ランナーに打ってつけだったのだと思います。最終聖火ランナーはプロボクシング世界ヘビー級王者のモハメド・アリやフィギュアスケート五輪メダリストの伊藤みどりさんら、ビッグネームが務めるのが恒例です。無名の青年は大抜擢でした。誰かが強行に押したとしか思えませんが 坂井 まったく分かりません。だからここからは僕の推測です。当時、朝日新聞の運動部長は早大陸上部出身の織田(幹雄)さんでした。1928年のアムステルダム五輪陸上三段跳びの金メダリストです。その織田さんあたりが、東京五輪組織委員会の事務総長だった田畑(政治)さんあたりに提案して決めたのではないかと思っています。織田さんも広島出身でしたから。 ――なるほど。そういえば田畑さんは出身は静岡ですが、元朝日新聞の記者でしたね。まとまりは良かったかもしれませんが、平和の祭典として意志のある素晴らしい人選でした 坂井 拉致されたまま上京して、お茶の水の山の上ホテル(ヒルトップ)に3日間缶詰になるんですが、その間、朝日の記者に国立競技場に連れて行かれて「ちょっとトラックを走ってみるか」と言われ、何枚か写真を撮ったんです。僕もついその気になって応じてしまいました。 ――内定スクープに続いて、完成したばかりの国立競技場での試走写真も朝日新聞に報道されたわけですね。状況的に考えて織田さんの演出と考えるのが妥当でしょう 坂井 織田さん、田畑さんもすでに亡くなられていて、確認は取れていません。ただその状況から当時、他社が大激怒したらしい。昼食時にテレビをつけたらNHKニュースでアナウンサーが「坂井くんの不穏当な行動により、聖火ランナーを白紙に戻すことが発表されました」と言ってるじゃない。「内定取り消しだ」と自分も頭にきた。翻弄されてすっかり人間不信になって広島に帰りました。もう誰に会うのもいやで、誰に何をぶつけたらいいのかも分からなかった。 ――NHKニュースの全国放送でしょう。聖火ランナーへの注目の高さと混乱ぶりがうかがわれます 坂井 広島に帰って、誰と口をきくのもおっくうで、題名も見ずに映画館に入りました。そしたら萬屋錦之介の「宮本武蔵」でした。「一乗寺下り松の決斗」で宮本武蔵が吉岡一門を斬るわ、斬るわ、斬りまくった。痛快でスカッとしました。映画が終わって場内が明るくなったと同時に、そこでもアナウンスが流れたんです。「坂井義則さん、坂井義則さん、至急自宅にお戻りください」(笑い) ――宮本武蔵を見て良かったですか 坂井 そう。あれを見なかったらモヤモヤしたままで「聖火ランナーなんか、もうごめんです」と思ったままだった。自宅に帰ると日本陸連から電話で「最終聖火ランナーの正式発表を行う」という連絡がきました。 ――64年10月10日、第18回五輪東京大会の開会式は、前日までの雨がやみ、見事な秋晴れとなります。NHKの北出清五郎アナウンサーが「世界中の秋晴れを東京に持ってきてしまったような秋日和でございます」とテレビ中継を始めます 坂井 僕は一週間前から青山の小掛さんの家にいました。当日は小掛さんの車で信濃町にある絵画館近くの水きょう亭まで送ってもらい、そこで待機していました。あのあたりに各国の選手団もみんな集合していました。その後、いよいよ北門前に移動して聖火を待ちました。僕の前の聖火ランナーは高校2年生の女子で、その子がトーチを渡してくれたときに、ニコッと笑いかけてくれたことをよく覚えています。少し開会式の進行が遅れていたけど、僕はトーチを持ったまま足踏みをしていました。五輪旗を先頭に牛込仲之小学校の鼓笛隊が退場して、次は僕が場内に登場する番でしたけど、そこで間を取りました。 ――係員からの合図を待ったのですね 坂井 いえ、僕ひとりだったんです。孤独でしたよ。にぎやかな笛や太鼓の行進の後ですから、聖火には静寂が似つかわしいでしょう。観衆に「次は何だろう」と思わせた方がいいと思ったので、僕自身がアドリブで〝間〟をつくりました。そのまま20秒ほど足踏みを続けました。それからトーチの腕が下がらないように気をつけて、トラックを3分の2周して、163段の階段を駆け上がりました。 ――その様子をNHKの北出アナウンサーが名調子で日本中に伝えました。「坂井君、登り始めました。緑のじゅうたんを踏んで力強く登ってゆきます。未来に向かって限りない前進を象徴するかのように、速く、高く、力強く登ってゆきます。オリンピックの理想を高らかに歌い上げて、聖火は秋空へ、秋空へ、登ってゆきます。ついに坂井君は聖火台に立ちます。日本の秋の大空を背景に、すくっと立った坂井義則君。燃えよオリンピックの聖なる火。フェアプレーの精神で競争。世界の若人」。続いて坂井さんは右手で点火します。段取りで難しいところはどこでしたか 坂井 点火では聖火台の裏に人がいて、ガスをひねるんですね。プロパンガスの栓を手動で開くんです。だからコックをひねってガスが噴き出すときの〝シューッ〟という音に耳を澄まして、点火しました。火がついたときに顔がとても熱かった。 ――絶妙な間合いでした。今思うと会場には7万5000人の大観衆がいたわけです。点火は少々、危険をともなったのではないですか 坂井 そう。風向きでうまく点火できないときは爆発する可能性もないとは言えなかったんじゃない(笑い)。係りの人がリハーサルで「風向きを読んで点火しろ」と言うから、「そんなことはできない」と言いました。結果としてうまくいきました。周囲はとてもよく見えていました。ただ大歓声だったらしいけど、僕にはまったく聞こえていなかった。トラックを走っているときも、何も聞こえなかった。 ――不思議ですね 坂井 やっぱり緊張していたんでしょうね。後日、市川崑監督の映画「東京オリンピック」を見たら、点火した後、僕は笑っていたんです。本当にホッとしたんだと思います。あのころは若かったし、右も左も分からない田舎の若者だったから余計な心配もしなかった。うまくやろうという邪念もまったくなかった。それが良かったんでしょう。リハーサルでは左手でトーチを持っていたんです。だから聖火台の右に立って点火していたのに、直前にインドでは左手は不浄な手だから、右手で持てという話になって、本番ではすべて逆にしました。あの3分間で人生が変わったんです。 ――開会式の視聴率は84・7%。日本全国で6450万人が、坂井さんを見つめていたと言われています。その映像は通信衛星シンコム3号から海外にも配信され、宇宙中継とも言われました。大役を果たした後、五輪開催中はどうしていたのですか 坂井 毎日陸上競技を見ていました。100㍍の金メダリスト、ボブ・ヘイズ、200㍍の覇者ヘンリー・カー(とも米国)らの走りに圧倒されました。 ――大会期間中、あちこちで「見事な聖火最終ランナーだった」とほめられたでしょう 坂井 「ご苦労さん」とは言ってもらったけど、「見事だった」なんて言われてないですね。大会の2週間はもう激動で、日本中が五輪に精いっぱいだったからね。振り返る余裕は誰にもなかったんだと思います。ただ僕は聖火って何かを考えました。1932年のベルリン五輪でヒトラーが国威発揚を考えて聖火ランナーが登場したと言われているけど、日本は平和の火をともすという感じでアレンジしたんでしょう。だから昭和20年8月6日の原爆投下の日に広島に生まれた僕が、分かりやすかったんでしょうね。自分が最終聖火ランナーをやりたいと言ったことはただの1度もなかったわけです。ほかの人が決めてくれたことに乗ったあの3分間でしたが、それで僕の人生は間違いなく変わった。ありがたい3分間です。選んでくれた方には今も心から感謝していますし、人生最大の思い出ですね。 ――東京五輪から49年もたつのに、今も「あの五輪の坂井君」と言われ続けています。苦しいと思ったこともありましたか 坂井 他人に言ったことはないですけど、そりゃあいろいろありました。選手として五輪に出場したくて次のメキシコ五輪を目指しました。東京五輪の2年後、66年のバンコクで開催されたアジア大会で400㍍の日本記録も出しました。調子良くてね。メキシコは選手として出場するんだと気持ちも高ぶっていました。そうしたらアキレス腱を痛めたんです。ものすごくがっくりしました。ところが、マスコミは面白がって、僕がうつむいている写真を雑誌に掲載しました。隣にいた何の縁もない女の子とのツーショット写真も載せて、「記録低迷の原因」みたいな書き方もされました。田舎に帰ったときにおふくろが「聖火ランナーなんか本当にやらなきゃよかったね」と言ったこともあった。親も身に染みて感じたことがあったんだと思います。聖火ランナーをやって辛かったことは、ずっと口をつぐんできました。 ――たくさんの就職先が舞い込んだ中から、フジテレビを選ばれました 坂井 大学1年のときはマスコミの馬鹿野郎って心底怒っていたのに、時間がたつにつれて、逆に1匹狼でやれる男の仕事じゃないかと思えてきて、マスコミに行きたいと思うようになってね(笑い) ――フジテレビ入社はメキシコ五輪出場を諦めた68年、スポーツ局への配属でした。72年のミュンヘン五輪ではパレスチナ・ゲリラが選手村でイスラエル選手団を襲撃した忘れがたい事件が起きました。あのときはどうしていましたか 坂井 現地にいましたよ。連日五輪の報道をやっていたんです。いよいよ大会が後半に入る9月5日、日本からの連絡で「アラブ・ゲリラがイスラエル選手団の宿舎を襲撃して死者が出た模様…」との一報が入った。深夜でした。前半戦が終わったという安堵感で一杯やっていたときだった。ものすごく驚いた。「五輪は平和の祭典なのに、何でそんな事件が起きるんだ!」と憤りを感じて、とにかく選手村の中に入って、この目で確かめようとしたけど、厳重な報道管制が敷かれれいてネズミ一匹入れない。そこで早大の後輩の水球部の選手のユニホームを借りて、選手に化けて選手村の中の様子を見に行くことを思いついた。そして日本選手団のユニホーム姿で堂々と中に入った。タイムラグがあって、まだ選手たちには何も知らされていないときで、各国の選手たちはふつうの生活をしていた。卓球をしていたり、談笑していたり。だからむしろイスラエルの選手たちも競技のことだけを考えている平和な時間の中にゲリラが入ったのだと分かって、その卑劣さを思うと言葉がなかった。だからそのとき自分が感じたものだけを日本に向けて電話でリポートしたんだね。 ――勇敢でした。選手に化けて報道した人は世界でただ1人だったのではないですか 坂井 他の国の人のことは知らないけど、怖いもの知らず…だったね。若かったんですよ。 ――さて現在、東京は2020年の五輪招致に立候補しています。どんなお考えを持っていますか 坂井 なぜ今、東京なのか? どんな意味があるのか? という人もいますけど、もう理屈抜きですよ、五輪は。頭でつべこべ考えて、あーでもない、こーでもないじゃなくて、じわっと沸いてくるものが五輪にはあるでしょう。あれですよ。小学生たちにも後できっとプラスになる。教室で教えられるものとは全然違うものですよ。東京で五輪をやることで、日本中の老若男女が受け止めるものは、とてつもなく大きいはずです。理屈じゃなくて、東京でやりたいですよ。(取材・構成 長田渚左)
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